

ロンドンナイトは、1980年の東京で産声をあげた。若者たちは奇抜なファッションに身を包み、待ち望んでいた“終わりのないパーティ”に熱狂していた。彼らにとって、ロンドンナイトこそが、古ぼけた価値観を覆す新しい波=ニューウェーブそのものだったからだ。その渦中で、常に一歩先の波に乗ってきた3人の男達が、今なお鮮烈な記憶を語る。――これはただの昔話ではない。パーティはまだ終わっていない! マイノリティの集団が至るところにあって、 パンクだけじゃなく、GS、そして歌謡曲…… 【大貫憲章 KENSHO
ONUKI プロフィール】
藤原ヒロシ(以下F) 実は、ロンドンナイト以前から大貫さんのいる店に行ってたんです。高校生の頃、西麻布のトミーズハウスとか。 大貫憲章(以下O) 俺が最初にDJをやった店だ。その後クラッシュのツアー観て帰ってきて、ロンドンナイトを始めたんだよな。 ――大貫さんの情報をどこで知りましたか? F 雑誌で見て。あと先に上京していた友達と一緒に、当時出来たばかりのクライマックスやレッドシューズに遊びに行ってて、その流れの中にトミ−ズもあって。 立花ハジメ(以下T) ヒロシがわざわざ出かけて行くってことは、当時のヒロシがいちばん興味あるDJが大貫君だったってこと? F そう。あの頃は、今みたいなDJという認識ではなかったけど。 O フリーのDJで認知されてる人ってのがほとんど居なかったからね、あの時代は。 T ああ、そうか、そうだよね。 F 東京に出て来てからは、それこそ大貫さんの追っかけ(笑) 大貫さんのDJには、大体どこでも連れてってもらいましたよね。 O 友達だからね。お客さんであると同時に友達だったから、普通に遊びに連れてったね。 ――立花さんと大貫さんの出会いは? O ハジメちゃんのことは、プラスチックスで知ったの。実は俺もバンド活動を70年代に……。あれはツバキ始める前だよね? T 全然前だよね。77〜78年頃だね。 O 東京セックスピストルズって名前でバンド始めて、一応ボーカルをやらせていただいて(笑)。その頃プラスチックスの噂を小耳に挟んだ。メンバーは素人らしいって話も。 T キューズバーで対バンしたんだよね。 ――どんな印象でしたか? O 俺達は、東京セックスピストルズと名乗っているものの、ルックスはドクター・フィールグッドを髪だけパンク風にした、みたいな。だけどこの人たちが出てきたら、もう皆オシャレなのよ! ファッションが!! T&F
(笑) O 演奏も俺達なんかより遥かにちゃんとしてたし。俺達はピストルズや60sカバーみたいなのをやってたのに、プラスチックスはオリジナルやってるからビックリした。 F 僕から見ると、プラスチックスは日本のバンドじゃなかったね。いろんなバンドがいたけど、プラスチックスだけはコスモポリタン。 O そんな感じはあったね。コンセプトがあったの? ファッション的には、最初はピストルズとかそういう感じの格好してたよね。 F それはたぶんトシちゃん(中西俊夫)だけですよ。ハジメちゃんは違った。 T 今でこそ大好きだけど(笑)、当時は着てなかったね。 ――皆さんのロンドンナイトの記憶は? T 始まったのは80年位だよね。 O ちょうど80年だね。 T 僕は元々ディスコとか行くタイプじゃなかったんだけど、あの頃はMILKの大川ひとみちゃんや中西なんかと一緒に居ると、自然に「ツバキ行く?」みたいになってたね。行ったら「今日はロンドンナイトだ」って。 F ひとみさんには、僕もあちこち連れてってもらったな。音楽面やクラブでのキーパーソンが大貫さんだとしたら、ファッション界ではひとみさんだったよね。 ――他の場所との違いってありましたか? T かかる曲が全然違ってた。でもあの頃は、大貫君もパンクばかりかけてた訳じゃないし、何だろう? GSかけてたのは覚えてる。 O グループサウンズも歌謡曲もかけたし、ニューウェーブとか映画音楽とか。 T だよね。そういう音楽はまず他のところでは聴けないっていうのと、自分もわりと好きな……何ていうのかな、パンクだけじゃなくて同じルーツみたいな感じの曲がかかっていたのは、よく覚えてるよ。 O 俺は本職のDJじゃないって意識だったから、映画音楽でも歌謡曲でも良い曲をかけて、自分の好きなサウンドにもっていければいいな、というイメージがあった。今でいうミクスチャー、ノージャンルでやってた。 ――当時はニューウェーブ全盛期ですよね。 F 盛り上がってくると、NMEのヒットチャートに載ってたような曲がガンガンかかる。 O カルチャークラブにデュランデュランと、イギリスの個性的なグループがたくさん出てきて勢いがあったね。 ――ツバキハウスは、今で言う「クラブ」の先駆けと言われていますね。 T ツバキは、クラブじゃないよね? F まだ一般的にディスコの時代で、ツバキも基本的にはディスコだったよ。 O そうそう。ツバキはオールナイトで飲食が出来る。フリードリンク・フリーフードっていう制度はディスコにしかなかった。 F 昔は文化服装学院の学生とか、学校終わって19時頃ツバキに来て、食べるだけ食べて飲めるだけ飲んで、寝られるだけ寝てた(笑) O ちょうどディスコ全盛期からクラブシーンに移行する時期だったんだね。特にツバキは、日替わりでジャンルを変えるというワンナイトクラブの形態をいち早く取り入れた。ツバキの店長だった佐藤さんは、俺みたいなフリーランスを呼んで「好きなようにやっていいよ」と言ってくれたんだ。僕がやりやすいように、マッちゃんというDJだけ残してあとは新人を入れたり。最初が北村一郎で、そのうちカンタロウや福田も入って、ロンドンナイトのDJシフトが出来ていった。 ――まだフリーのDJは珍しかった? O ディスコではDJもウェイターも区別がなかったんだよ。当時はDJも結構ヘビーな労働でね。俺は下積みしたことないけど。 F どっちも店の従業員で、皿を洗うか回すかの違い。ディスコのDJはお店についてて、自分のレコードを持って来る訳でもなく、店にあるレコードを回してたの。そんな中で大貫さんはフリーの先駆けだった。それ以降、フリーDJを雇う店が当たり前になったね。 ――クラブシーンへの流れは、どこから? O やっぱり海外の流行からだと思うよ。あの頃、プラスチックスは海外デビューもして、向こうでクラブサーキットをやったり、80年代初頭としては画期的だったよね。 T こっちは意識強いけど、NYには世界中から人が集まってるから特別な事じゃないよ。ライブも何時から誰々って、ごく普通にクラブのタイムテーブルで組まれてる感じ。僕らの出たマッドクラブなんかには、ペパーミントランジーとかも出てたよ。決してそういうところにイギー・ポップは出ないけどね。 O イギー・ポップは出ないね(笑)。ヒロシがロンドン行ったのはいつだっけ? 向こうのクラブはどんな感じだった? F 82年。ロンドンはNYと違って、クラブもジャンルや客層がハッキリ分かれてる印象だったな。ドレスコードがあって観光客やサラリーマンは入れない店もあったし。 T お洒落をして行かないといけない場所? F お洒落っていうか、そのクラブに見合ったドレスアップ、ドレスダウン。でもロンドンナイトみたいなミクスチャー的なドレスダウンは、ロンドンにもNYにもなかったな。 O 海外のクラブはライブが出来るっていう前提があるけど、日本のクラブは、単にお酒と音楽を提供する空間だったような。 F でもツバキではライブしてたよね。VIPルームの席外して。 O うんやってた。ホール&オーツ出たもんね。YMOにストレイキャッツに……。 ――ツバキは特別だったんですか? F そうかも。あとあの頃ってマイノリティの集団が至るところにあって、それがみんなロンドンナイトに集まってたのがスゴイ。普通だったらモッズとパンクが仲良いはずもなく、ゲイも違うジャンルでしょ。でも当時は、同じように少数派だという部分で連帯してた。 O 今考えると、そんな場所あまりないよね。 F 今はいろんなタイプのクラブやDJが出てきて、各ジャンルが一個ずつ大きくなってる。 O
「何でもあり」って言われると逆に戸惑うお客さんが多いね。 F うん。でも、もしかしたら当時も、パンク好きな人はパンクが一日中かかっていたほうが良かったのかもしれないな。 O ヒカルはそう言ってたよ。 F でも当時そんな場所はなかったし、全然かからないよりはマシだからね。 O ロンドンナイトは、音楽もお客さんも何でもあり。いろんな音楽や文化に関心のある人に来て欲しい。それは今も変わらないね。 ――その後、ロンドンナイトはパンクのイメージが強くなりますよね。 F パンクスなんて数える程しか居なかったよ、最初の頃は。 T いつ頃から「ロンドンナイト=パンク」っていうか、デンジャーな感じになったの? F 84〜85年かな。ツバキの中〜後期だよね。 T 76年にパンクがあって、80年にニューウェーブがあって、それを越えて? O そう。ツバキでパンクもかかるイベントがあると雑誌に載って、地方から若い子がいっぱい来たの。そうしたら「パンク=暴れられる」って方向になって……。かなり殺伐とした時期があったよ。ケンカで隣に居た女の子がケガしたり、1日に2回救急車が来たり。よく店長が警察に連れて行かれて「始末書書いてきます」って。さすがにヤバいと思った。 T (苦笑) O 雑誌にロンドンナイト・ファミリーって記事が出てさ、ピラミッド形で俺が一番てっぺんになってる。俺達はマフィアみたいに思われてるのか、とビックリしたよ。全くそんなつもりなかったし、若い奴らに何かを強制したり、こういうDJになれとか言った覚えもない。言ったのは「俺達は金を貰ってるんだから、お客さんの事を考えろよ」ってくらいで。でも、気がつけば俺じゃなくて、俺の周りに居た奴らがうるさかった。 F 80年代前半のマイノリティが集まってゴチャゴチャしてた状況から分裂して、ロンドンナイトはパンクやロックのジャンルに細分化されて、客もそういうのが好きな人達が集まってきたんだよ。暴走族上がりとかそんな感じが増えて、先輩後輩の序列が出来て、いつのまにか縦の社会が出来ちゃった。それで雰囲気がガラッと変わってきた。 O まぁ、85年頃も普通の客はいっぱい居たんだけど、徒党組んでる人達が目立つんだよね。91〜92年頃までそんなイメージだった、ミロスに移ってからもしばらく。ようやく最近になって客も入れ替わって来てるけど。 ――80年代と今では、クラブシーンの雰囲気は変わりましたか? O 80年代のニューウェーブ的なクラブカルチャーってのは、なんか短かったよね。 F 僕が最後の方にいた82年に、ツバキハウスに警察がいっぱい入ってきたんですよ。その日は店を閉めなきゃいけないことになって、仕方なく別の店に行ったらそこにも警察が来て。聞いたら、その日歌舞伎町でアキレス腱を切られて殺された女の子が居て……。 O ひどい事件があったの。それがディスコ帰りの中学生だったというので、取り締まる法律が一気に作られちゃったんだよね。 F それまでは、僕はいつも大貫さんと朝の5時までツバキに居て、ひとみさんとか一緒に京王プラザで朝ゴハン食べて、そのまま大貫さん家に連れて行かれて、泊まって。 O 無理にとは言ってないから(笑) F これがDJ業界なんだ、と思いながら服を脱いだりして……。 O そんなことしてないよ!! お前、ヘンなこと言うな! T そうだったんだ(爆笑) F
(笑)当時はハシゴが当たり前だったから、ロンドンナイトで待ち合わせして、玉椿行って六本木行って、またツバキに戻る。でもあの事件以降、24時に店が閉まっちゃう。 T それは何年頃の話? O 風営法が出来たのは84年頃だったと思う。二〇〇三年に廃止されて、今度は東京都で23時以降未成年の徘徊禁止条例が出来た。厳密に言うと、18才未満はコンビニに行くにも親の承諾を得ないと行ってはいけない。 T そう言えばこの間、代官山のクラブで「ID見せてください」って言われたよ。 O 顏見りゃ分かるじゃん! 18、19って顔じゃないよね、いくら何でも(笑) T あっちも顔見て笑ってた(笑)。結局そのまま入ったけど、皆はちゃんと持ってたね。 F 昔はIDつけてクラブ行くなんて考えられなかった。だから僕なんかも13歳位からツバキに居るし、周りもみんな高校生位だったし。 O 15〜16歳位でデビューが普通だったね。最近ロンナイでアンケート取ったら、平均年齢26歳。これも少子高齢化なのか(苦笑) ――10代の子がクラブに行きづらいですね。 O そもそも日本にIDってものがないじゃない。免許証を持ってない人、パスポートの期限切れてる人は大人でもどうしようもない。写真がないから保険証じゃダメって言うんだもん。そんな馬鹿な!ってのが現実。そうなってきたから居心地悪いし、そこまでしてクラブに行きたいか?っていうと……。 F うんうん。 O クラブの魅力って何だろうかと、最近あらためて考えるね。クラブ自体が日常化してるせいか、昔みたいな熱気がなくて、お客さんが何を求めてるのかも分かりにくくなった。曲がかかってもフロアに行かない、ソファに座って動かないお客さんも居るからね。二五〇〇円も払って何してんだろう?って。 T&F (苦笑) O 地方でやるときは、今も凄くたくさんの人が集まってくれるよ。年に一回しか来ないから。でも東京は客が減って来てる。毎週やってるし今日はいいかって感じなんだろうな。 F 携帯もメールも使えて、友達ともいつでも会えるしね。昔はロンドンナイトに行かないと会えない友達がいたんだ。当時はアパートに電話がない子も多かったから、毎週会いに行く。今とは状況が全然違うよね。 O ニーズがあるから25年間続けて来れたけど、ロンドンナイトが果たす役目が終わったような気もしてる。「ロンナイ=大貫憲章」って言われるのも、俺的にはもう十分だし、若いDJもいっぱい育ってるし。今までとは違うアプローチが必要なのかもな。それがどんなモノなのかは、まだ分からないけどね。 以上
それがみんなロンドンナイトに集まってた。(藤原)
【藤原ヒロシ
HIROSHI
FUJIWARA プロフィール】
初期ロンドンナイトの常連として知られる藤原ヒロシ。DJ(休業中)、音楽プロデューサー、ファッションディレクター……彼の仕事は、ひとつの分野に特定することができない。飽くなき好奇心ゆえにクラブカルチャーの枠を飛び出し、現在のストリートシーンの原型を作りあげた。
他のクラブでは絶対に聴けない選曲だった。(立花)
【立花ハジメ
HAJIME
TACHIBANA プロフィール】
グラフィックデザイナーとして、ミュージシャンとして、常に未知の領域を開拓し続ける立花ハジメ。76年に中西俊夫・佐藤チカらと結成したプラスチックスは、先鋭的な音楽性とビジュアルセンスで世界的に注目される存在に。
音楽評論家、ラジオDJ、クラブDJとさまざまな顔を持ちながら、一貫して“現場”にこだわり続ける男、大貫憲章。言わずと知れたロンドンナイトのボスであり、ロックで踊るという概念を日本に浸透させたパイオニア
――大貫さんと藤原さんの出会いは?